フィギュア愛好家、カンボジアなう!

英語ができないのに海外赴任した人のブログ。カンボジアの生活や食事のこと、フィギュアのこと、本のこと。

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4日目:夜:中編

      2016/01/24

夜の空を2つの影が舞う。
ひとつは夜よりも深いマントと所々から白い柔肌を晴らす少女の形。
ひとつは影よりも暗い身体と月下に光る白い仮面の巨大な蟷螂。
その2つはとあるビルへとたどり着いた。そこは広々とした空間で遮蔽物も少ない屋上。カマキリはその巨躯を4つの足で音もなく着地し、ヨルはひらりと落ち葉のように給水塔の上に止まった。
「ここを自分の墓場にするのか?随分と……動きやすそうな場所だな」
「……」
「ネコは運動神経が良いと聞く。スピードで勝負か?面白い」
「……」
「……だんまりか。なら声を上げる暇なく切断してくれる…!」
その言葉を言い終えると同時に、黒いカマキリの姿が消え、給水塔は細切れにされ水飛沫が月明かりに煌めく。
切り裂かれた給水塔に立っていた少女は、コンクリートの舞台の中心近くで佇んでいた。
屋上の至る所から不規則に風が流れる。狩人は目にも留まらぬ速さで黒い少女の周りを動き、間合いを詰めていく。
「なー」
ふと何の前触れもなく張り詰めた空気の中、間の抜けたネコの声が響く。
その声が大気を弱々しく撫でた刹那、黒いカマキリの動きが止まる。その足の1つには地面に描かれた魔法陣らしきものから伸びた黒く細い手がいくつも絡みついていた。
彼はとっさに鎌をたたみ、自身の首、頭部、を庇う。その刹那、自身の鎌に強い衝撃が走る。
守りの隙間から見えたものは爛々と金色に光る黒猫の瞳。
一撃を防がれた黒猫は体制を変え、カマキリの守りを足蹴にして距離を取る。
「卑怯な……罠だと?舐めたことを」
カマキリはそう言うと自身の掴まれた脚を不定形の靄に戻す。すると、彼の脚を絡めとった腕たちは雲散霧消していく。それを確認したカマキリは再度自分の足を再構築する。
「硬い鎌ね」
そう面倒くさそうに呟いたヨルの両手には黒く不格好なほど大きな猫、否、まるで虎のような獰猛な形をした黒い腕となっていた。
その腕が一番目立つのだが、彼女の風貌はいつもの裸に黒いマントとは打って変わった衣装だった。
上半身は薄い胸板を覆う程度のサラシのようなものを纏い、腰には丈の長い腰布を巻いていた。しかしそれらは布などではなく彼女の溢れる力で編まれた鎧のようなものだ。その黒布は見た目以上に固く、強靭で、柔軟。
幼さを残す風貌に不敵な笑みをうっすら浮かべて、彼女は言う。
「でも、さっきので終わりだったほうが良かったかもね」
「……どういうことだ」
「知らない?猫はね、獲物をいたぶって遊ぶの」
黒い少女がそう言うとコンクリートの地面が色とりどりの光で満たされる。
その一つ一つ、大小色とりどりのそれら全てが魔力の篭った陣。その光景はまさしく美しい色彩の光の花壇。
この人間の世界は黒猫側の陣地であることを気付かなかった己の不用意さ、浅慮をカマキリは悔やんだ。不利を悟り、とっさに彼女の領域から逃げ出そうとするが、見えない壁に遮られる。
「当然だけど、結界を張らせてもらってるわ。そんなに強いものじゃないから、時間をかければ力づくで出れる。でも、そんな余裕はあるかしら」
結界の壁面にたじろぐカマキリに向かって漆黒の閃光が迫る。
黒いカマキリは自身がいた位置から素早く一身のほど距離を取り、鋭い一閃を振るう。
その一撃はカマキリが先ほどまで居た場所に向けられ、身を翻そうとするヨルの細い首筋を捉えていた。
だが、彼の足元から身を包むほどの豪炎が上がる。その威力こそ大したものではなかったが、彼から視界とバランスを奪う。
咄嗟に自慢の鎌を畳み防御の姿勢をとるが、狙われたのはその首ではなく細い足。
カマキリは喪失感を感じながら、全力で後方へ下がり距離を取った。
ヨルとカマキリは距離を挟んで対峙する。
「……」
無言の時間が白い仮面の奥深くにある感情を物語る。
「さ、遊びましょう。楽しませてね」

月が傾き始めた。
幾許かの時間の中でカマキリは脚二つ、右の鎌は半分に折れ、ふっくらとした腹部は半分もなかった。
カマキリを襲ったのは統一性の全くない魔法の嵐――槍、炎、氷、拘束、幻、目眩まし――と、狩るべき相手だった黒猫の元死神の投擲と剛爪。
不用意に動けば敷き詰められた魔法の罠にかかり、その隙を狙った鋭い一撃が飛んで来る。
動かずにいればお世辞にも頑丈とはいえない体に黒猫の黒い投擲の的となる。
“詰み”にすら思える状況の中、彼はまったく読むことの出来ない攻撃に対して防戦一方となっていた。
しかし、そんな中で気付いたことが2つ。人の形をした黒猫は明らかに遊んでいる。好機をわざと外し、急所を外して攻撃を仕掛けてくる。そして、もう一つは一度使われた魔法陣は効果を失う。
圧倒的に不利な状況だが勝機はある。
「どうしたの?そろそろお終い?」
元死神の少女は僅かな笑みを浮かべて悠々と立ちはだかる。それはまるで、もう勝負の行方は定まっていると言うように。
その余裕はまさしくカマキリにとって好機だった。
彼は遊びに浸る黒猫へ至る最短、最善、最高の道を見極める。
必殺の一撃のために耐えて、溜めていた力を疾駆することへと集中させる。
自身の持つ力を自分自身の存在を保てるギリギリのところまで費やして、彼は駆け出した。それは移動という範疇には入れるにはあまりにも疾く、空間の跳躍に近しい。
それに気付いた黒猫は魔法陣を発動される。しかしそれはカマキリの後方で虚しく業火を撒き、空に剣戟を浴びせたに過ぎなかった。
彼は瞬く間に自身の間合いに黒猫を捉える。あとは自慢の鎌で切り裂いて彼の任務は終了。
―――となるはずだった。
しかし、次の瞬間にはカマキリの視界は黒猫と自分の傷ついた身体――鎌から上の部分をなくした自分の身体――が写っていた。
「な、何が…お、きた……」
咄嗟に彼は視界と感覚を周囲に広げて周りを探ると、暴風のように魔力を撒き散らす3つ目の異形の足元に自分が居ることに気付く。憐れなことにその気付きは彼が感じた最後の記憶となった。
真紅の瞳を煌々とさせたそれは何の躊躇もなくドクロの仮面をハンマーのような太く頑強なその足で踏み砕いた。
カマキリの白い仮面が砕けると彼の黒い身体は闇夜に溶けて無へと帰っていった。
「うふふふふっ、危なかったねぇ!ヨルちゃんっ!!」
女の声でソレは言った。
その目は血のように赤く深く。青い毛並みに覆われたその腕は人間の数倍の大きさ。その脚もまた青い毛に覆われた獣脚。
しかし、その体はなだらかな曲線と柔らかさを持つ人間の女そのものだった。彼女の頭髪が首あたりから下が青く染まっていること以外はヨルの知っている人間だった。
「ヨシノ……」
「ふふ、どう?いい感じでしょ。この体」
その青い女は黒い少女が見たこともないほどの無邪気な笑みを浮かべた。
「……随分とバケモノらしい格好ね」
「でしょー?人間だったころの身体なんてまるで虫みたいに弱く感じちゃうわ!」
その青い女は黒い少女が聞いたこともないほどの邪気に満ちた声を上げた。
「……」
「これだけの力があれば、会社のあの口の悪いクソババァも!セクハラ上司も!ムカツク取引先も!私の胸ばっか見てくるコンビニのハゲも!しょっちゅう電車で私のおしりを撫でまわしてくるおっさん共も!自分らのことばっかの裏道の奴らも!みんな!みんな、みんなみーんな!―――殺してやれる」
芳乃は感情を爆発させて叫ぶように、晴れやかな語る。そしてそれに呼応するように膨大な魔力が垂れ流され、重々しい気流が彼女から放たれる。
『おい!黒猫!!こいつを止めてくれ!』
永綱の焦った声がヨルの頭に響いた。
「……駄犬。どういう状況?説明して」
『だ、駄犬!?いや、それは今は良い。此奴、自分の髪をもう一匹の死神にばっさり切られてな、怒りの勢いのせいか知らないがワシの力を奪いおった!』
「髪を?……まぁ、なら仕方ないわね」
「でっしょー?死んで当然よ!あの雑魚!」
ヨルの同意を得た芳乃は喜の色を含ませた大きな声を立てる。
『時間が経てば伸びてくるだろ!何でそこまで怒る!ともかく此奴を止めてくれ!ワシが何百年もかかって溜め込んだ魔力をここで台無しにされるのは困る!!』
「……私は関係ない。貴方を助ける理由がないし」
『くっ……』
「あはは!ヨルちゃんならそう言うと思ったわ!」
『というか、気が済んだろう?!お前の髪を切ったヤツはバラバラにしたっ!!その連れはさっき踏み潰した!!もう良いだろう、私の力を返してくれ!』
「いやよ。私の体は私のもの。私の中にある貴方の力も私のものよ。こ~~んな力があれば、もう何も怖くないっ!私は私らしく!私の好きなように生きていけるわ!そう、ヨルちゃんのようにっ!!弱い人間なんて、もう真っ平ごめんよ!!!あっはははははっっ!!」
拒絶から始まった芳乃の独白は麻薬中毒者の様に理性をすり潰した叫びと笑いに変わっていった。
『ええいっ!不満が溜まりすぎた反動で理性が飛んだかっっ!黒猫!お前も何とか言ってくれ!こいつがお前に影響を受けてるのは間違いない!!お前にも責任が……!』
「しらないわよ」
酔い狂う暴れ狼を説得するのを諦めた永綱は、苛立ちの混ざった声でヨルにも協力の義務を追わせようとするが、あまりにも無味乾燥なさっぱりとした言葉で切り捨てられた。
そしてヨルはもう用はない、とばかりに白く細い腕に纏わせた黒虎の腕を不定形のマントへ還元し身を翻す。しかし、その肩を永綱の言葉が掴んだ。
『……黄泉帰りの秘術。探しているのだろう、黒猫』
黒い少女は体を硬くする。
「……貴方が使えるというの?……それは本当に、死者を蘇らせることが出来るもの?」
いつもお彼女の口調からは考えにくい驚きと疑いの混ざった声でヨルは永綱の声に問いかける。
『理論上はな』
「理論上?信用出来ないわ。そういう術を幾つか私も使ったけど、どれもこれも出来損ない」
弱さをにじませた声は一転して落胆と侮蔑の固く沈んだ声となった。それは彼女の今までの無数の落胆が凝固したもの。
『他の術がどういうものか知らんが、私が主から授けられたものは、”死”という事実を初めからなかったことにできるものだ。運命そのものの書き換え、といえばわかりやすいか』
「……」
その説明を聞いたヨルは手の甲を唇に当てて思考に潜る。
『この術には膨大な魔力が必要なのだ。だから儂はずっと溜めてきたのだ。それをこんな形で失う訳にはいかない。その術を発動させ成功させること、それが私と主の最後の約束なのだから!』
思いで語る犬神の言葉は懇願にも近いものだった。そして死した恋人を愛し続ける黒い少女にとって、犬神の”主との最後の約束”という言葉は、彼女に響くものを感じさせた。
「……そう。その術、テオに使ってくれるんでしょう?」
『ま、まぁ、儂が使うタイミングに合わせてもらうことになるから、いつになるかわからんが……』
「別にいい。私にとって時間なんて大したものじゃないもの」
黒い少女は一息ついて、半人半獣の女に向き直る。
「力を犬に返しなさい、ヨシノ。しなくても良い面倒は嫌いなの」
「いやよ」
その短い返答には絶対拒絶の意思がはち切れんばかりに詰まっていた。
つい先程までは狂気をにじませながらも友好的な表情だったというのに、不快感を毛ほども隠すこと無くヨルを睨む。
「……その顔。少し、お灸を据えてあげないといけないみたいね」
「ヨルちゃん、わかってないの?貴女は今の私よりもずっと弱いってこと」
にたりとした笑みを受かべながら芳乃は言った。
実際、シンプルな力の差で言えば芳乃、否、永綱の力が圧倒的に上。
だからこそ初めて会った日に永綱の頼み通りに芳乃の身体を運び、ある程度自分の監視下に置くために芳乃との同居を始めた。
そして、あわよくば何か自分の目的に有効的な何かを持っていないかを期待していた。結果、彼女の狙いは大当たりだった。
彼女の狙い、彼女の夢、彼女の悲願、完璧な死者蘇生の術、恋人の、愛する雄との再開。
犬神の言葉を察する限り発動すらされたことのない術だが、今までにない方法であり、言葉の通りであれば可能性は今までよりも高く、期待はできる。
その希望をここで不意にされるわけにはいかない。力を溜めなおせば出来るだろうが、彼は1000年以上掛かって溜め続けているのだ、ここで全てを不意にされて1000年以上待たされるのは流石のヨルも御免だった。
力の差は歴然だが、闘争というものは単なる力で決まるわけではないのだ。ヨルの意はすでに、ずっと昔から決まっている。
「なら、かかってきなさい?貴女みたいな頭のゆるい力だけの子犬が私に勝てるなんて本当に思っているの?」
「はんっ!すぐにその言葉を撤回させて上げるっ、わ!!」
青い獣は一飛で黒い少女との間合いを詰め襲いかかる。
その速度は音速に匹敵するかと思われるほど。しかし、芳乃の爪はヨルに届くことはなかった。
「っく、何よ!これっ」
芳乃は襲いかかろうとした結構のまま、宙に浮いて静止していた。
青い獣の爪は黒い少女の眼前でピクピクと蠢くばかりだ。
「さっき、貴女『危なかったね』とか言ったわね。私が誘ってたのに気付かなかったの?……これは私が”対処出来ない速さを持つ相手”に対して使う魔術の空間を対象にした静止壁。どんなスピードで近づいてきても確実に絡みとる」
ヨルは変わらない表情で芳乃を見上げる。その芳乃は拘束を解こうと全身に力を込めて身を震わせている。
「さて」
ヨルは宙に浮く芳乃の額に人差し指を当てる。
「しばらく貴女の意識を飛ばさせてもらうわ」
そう言った刹那。
「ううぅぅぅぅっ!なぁぁめぇるなぁぁぁ!!」
石英の壁が砕けるような音のない乾いた轟音が空間を伝わる。咄嗟にヨルは大きく後ろに下がり距離をとる。
芳乃は地面に足をつけ、やや汗ばんだ怒りの形相でヨルを見据える。
「力づくで私の静止壁を破るなんて……どれだけなのよ……」
『おおおぉぉ……さっきので50年分ぐらいの魔力が吹き飛んだぞ……』
悲痛さすら感じさせる永綱の呟きが聞こえる。しかし、もはや外野でしか無い彼の言葉に耳を貸す者は居なかった。
「ふふふ、流石はヨルちゃん……。策士って感じなのかしらね?でも、そんな小細工なんて力づくで踏み潰してあげるわよ!」
自信と荒々しさを湛えた声で芳乃は言った。
『やめてくれ、本当に……』
永綱の声が虚しく響く。
「そしてぇ、ヨルちゃんも力づくで組み伏せて、この力と同じように私のものにしてあげるわっ!」
その言葉が言い終わるか否かのタイミングで芳乃は再度跳躍する。それは先程よりも疾く針の様に大気を突き抜ける。
しかし、ヨルは低い柵を飛び越えて、他のステージへと闇夜に溶けていく。
「逃げるの?!待ちなさい!」
ヨルは自身の身体能力と漆黒のマントを使って夜の空を泳ぐように区画を区切る車道4車線と広い歩道を擁する大通りを挟んだ向こう岸へのビルへ飛び移る。
翼のない芳乃は自身の跳躍力だけによって奈落の谷を飛び越えようとする。しかし、その跳躍はわずかに足りない。
芳乃はビルに激突する寸前で異形の両手足の爪をコンクリートに食い込ませ滑落を防ぐ。そして即座に壁面を均整を破壊しながら屋上へ向かった。
登り切ってみると、すでにヨルは次のビルへ飛び移る最中であった。
次のビルと自身のいるビルの距離は2車線と狭い歩道がある程度で、距離にして先ほどの半分。芳乃そのまま駆け出し跳躍、空中に漂うヨルに襲いかかる。
その気配を察したかヨルは後方を見やるとマントを大きく広げる。そこからは黒い槍――柄の太さが人間の太もも程はあろうかという巨大な槍――が左右から計二本、芳乃へと襲いかかる。
咄嗟にその青い豪腕で身を守るが、後方へ飛ばされてしまう。反面、ヨルはその反動で芳乃との距離を再び空けた。
勢い良くビルの壁面に打ち付けられた芳乃はそのまま数10メートル下の地上に落下し、駐車されていたセダンを自身の体重と落下速度でスクラップと化す。
その界隈は人通りも多くなく店も少ないが、異常な轟音を耳にした野次馬の気配が漂い始める。
「お、俺のっ!!俺の車ぁぁぁぁっ!!」
鉄くずになった車に最も近い飲食店からワイシャツを着た男が叫びながら駆け出てきた。
ソースの絡んだ右手のフォークが彼の動揺を物語る。
「何が、何があったっ!?どうしたらこうなるんだっ!」
持ち主の男の問いかけに答えるものはいなかった。偶然にもその瞬間を見たものはいなかったのだ。
その答えの代わりに車だったものを下敷きにした青い巨体が起き上がる。
「いたた、打ちどころが悪かったかしら……。意識が少し飛んだわね。……ん?」
視点と思考の焦点の合わない頭を抑えながら立ち上がった芳乃は無数の違和感を覚えて、周囲を見渡す。
自身の周りにいる数人の人間が驚きと恐れの混ざった無意識の眼差しを青い巨躯に浴びせている。
芳乃は自分と同じだったモノに”自分は圧倒的な存在だ”ということを証明され、彼女が感じたことのない恍惚とした優越感を感じさせた。
その感情は彼女に権力者の悪戯心をもたげさせる。
芳乃は胸いっぱいに息を吸い込み、有り余る力を乗せて狼のごとく遠吠えをあげる。
その哮り声は近くにいる人々の耳朶に染み入り、畏怖を喚起させ、恐怖の虜にさせた。遠くに居る者ですら本能で生きる赤子や子供であれば泣き叫び、理性で生きる成人であっても言いようのない不安と恐怖に駆られてしまうほどの原初の力を持つ声だった。
腹の底に溜まった苦虫の一部を吐き出したかのように、少し晴れやかな顔の芳乃は夜の空の匂いを嗅ぐと、スクラップを足蹴にしてビルの壁面に跳びかかり、駆け上っていく。
再び月と星々の照らすステージに登壇する青い獣。黒い少女と大きく距離を空けられたいたが、彼女の鼻は黒い少女の禍々しい臭いを捉えたまま。自身の脚と鼻がアレばどこまででも追いかけ続ける自信があった。
獲物を追って月夜に照らされた天井の大地を疾駆する。
その距離は徐々に縮まり、あと50メートル程の距離にまで縮まったところで芳乃の知るこの街の常識ではありえないものを見る。
ヨルの臭いが留まっている区画は9つの建物で構成されているのだが、そのうち道路に接しない中心の区画だけ極端に背が低いのだった。
法によって区画を構成するビルのうち道路に接しない箇所はほかよりも一回り高く設計されるように決まっているため、この穴を目にした芳乃はその不自然さに身を硬くする。
不自然さはそれだけではない。この穴のには他とは異なり空気が濃かった。黒くどろどろとした何かが手足に絡みつくような不快感をそこから感じていた。そして、ヨルの臭いはその奥から漂っている。
明らかな罠だった。
なるほど、と芳乃は納得した。これが黒い少女の戦い方なのだと。
おそらくはセコンウルクのほとんどのビルの屋上は彼女のテリトリーで、多種多様な仕掛けが施されている。
そして、相手によって場所を変え、より有利な状況で相手を確実に倒す。
芳乃は逡巡する。どうすべきか。危険を承知でこの瘴気の穴に飛び込むか、あるいはヨルのことはひとまず諦めて身を翻して手に入れた屈強な人外の身体で第二の人生を始めるか。
答えは決まっていた。強者となった彼女にとって、もはや後退という選択肢はなかった。退けば弱かった自分と何ら変わらない、どんな状況であろうと打ち砕き、どんな罠であろうとも踏みしだいて、新しい自分のあり方を示さねばならない。
青い半獣の女は濃い瘴気を発する穴へと飛び降りる。瘴気は高度を下げるに従って濃くなり不快感を増していく。
芳乃は着地地点に小さなクレーターを作り、穴の底に降り立った。
周りのビルを見上げて、自身が立っているビルと比べると20階近く低いものに思えた。また、その屋上にはテーブルや椅子、瓶や缶、スナック菓子の残骸など生活感を漂わせてはいるが、久しく人が踏み入った形跡もなかった。
「逃げずに来たのね」
穴の底の中心に佇む黒い少女が語りかけた。
「逃げる?そんなのは弱い者のすることよ。今の私にはありえないことだわ」
「借り物の力でそこまで言えるわね」
「いいえ、これは奪った物よ。だから私のもの。私の力よ」
「使いこなせない、というのにね。いいわ。ここでこの追いかけっこも終わりにしましょう」
そう言って黒い少女は左膝を屈めて右の足をまるで湖にそれを浸すように自身の黒い影に沈める。どろりとした黒い空気の波紋がコンクリートの大地を波打つ。
「ここは感情の痰壺の底。不の感情を吸い寄せる魔法陣を張った場所」
黒い波紋が青い芳乃の体を撫でると、感情が、内臓が、筋肉が、思考が、生き物としての存在自体が、今、ここにいることを拒絶し始めた。異物感が胃袋をせり上がり、汗が滲む。
しかし、彼女は耐える。意地と意思で借り物の力を用いて逃走本能を抑えつける。
不意にヨルの身体が高く跳ね上がる。その様子は巨大なホースのような何かの上に立っているようであった。
獣の目を凝らしてみると黒い少女の右足首より下は白い脊椎のような形状の何かに覆われ、そこから長く、高く聳える何かに繋がっていた。
その何かがこの穴の中の瘴気の発生源であることは明らかだった。
「その負の感情は私のとっておきの下僕の餌」
うっすらと月光が差し込み、芳乃の眼前のものを映し出す。
細やかで鈍い朱を基調にしているが、様々な色の鱗に覆われた大蛇。しかし、その身体には百足を思わせる黒い鎧と無数の足が生えていた。
それは恐怖と不快感を感じさせる邪悪な異形のバケモノだった。
「な、によ……それ」
芳乃が始めて見る人間の形とかけ離れた巨大な異形に気圧されながらも呟く。
「私の下僕よ。今は身体だけ使ってるから本来の姿では無いけれど。……さて、もう一度言うわ。その力を駄犬に返しなさい」
右足首から伸びる大蛇の身体を伸ばして、ヨルは月光を背に芳乃に言う。その言葉には命令に近い強制力があり、芳乃は無意識に格上の存在の権威に屈服してしまいそうになった。
だが、歯を食いしばり敗北の言葉を遮った。
この穴の底の染み入るような暗い不快な空気、禍々しい足の生えた大蛇の身体が発する存在を否定し押しつぶすかのような威圧感。芳乃はそれらに拮抗するかのように感情のボルテージを上げ、それにともなって自身の中に滾る力の密度を上がっていく。その環境の圧力に対抗するため自身の中の力の密度を上げる、という適切な対処に永綱は感嘆詞を漏らすが、それは力の消費効率が悪くなることを悟り悲嘆した。
先ほどまで感じていた負の感情は消え去り力による高揚感が芳乃を包んだ。
彼女は大きく息を吐いて、黒い少女の問いかけに答える。
「もう一度言うわ。いやよ」
張り詰めた沈黙が月明かりが照らす穴底に横たわる。
青い半獣は爛々と光る赤い目に敵意を宿し黒い少女を睨む。月を背にして蛇足のような巨躯に鎮座する黒く細い少女の顔は影で隠れている。しかし、彼女の放つ空気は決して穏やかなものではない。人間のシルエットを失いかけている彼女達は静かに対峙する。
月が雲に隠され穴底が闇に包まれようとしている。
先に動いたのは大蛇の巨躯を操る黒い少女。穴の底が夜色に染まった刹那、大蛇の身体がコンクリートの地面から這い出ていく。その体は身体についた虫の足でビルの壁面にへばりつき、芳乃の四方を包囲する。
その体が地面から出きると同時に、大蛇の持つ百足の黒い鎧から無数のダガーが四方から飛来する。おもむろに駆け出す芳乃だが、その彼女を執拗に絶え間なく黒い短剣の雨が襲う。
四方のビルの壁にへばりつく蛇の体から様々な方向から放たれる短剣をくぐり抜けて壁面を這い、青い獣人は最も底から近い大蛇の身体に肉薄する。
芳乃は左手で壁面を深く刳り掴み自身を固定、右手に渾身の力を込めて赤みを帯びた鱗の肉に拳を放つ。
確かな手応えを感じながらも、絶え間なく放たれる短剣を警戒し、壁を蹴って再び穴の底へ戻る。
しかし、芳乃の一撃の甲斐なくヨルの下僕から放たれる攻撃の勢いは衰えることがない。
そう簡単にはいかないか―――得心と憤懣を混ぜあわせた心持ちで芳乃は再び大蛇に拳を浴びるために駆ける。
時間にして数十分。芳乃は十に近い数の攻撃を仕掛けているが、無数の足を持つ大蛇は堪える様子もなく平然と壁面に一体化をしたように動くこと無くしがみついている。
焦燥を感じ始め、逃げ惑う芳乃を蛇尾が横殴りに襲いかかる。飛び上がることでそれを回避したが、空中で自由を失った芳乃を黒い雨が襲いかかる。
芳乃は咄嗟に左腕を地面に向けて伸ばし、中指の鈎を描いた爪を伸ばす。それがコンクリートの凹凸を捉えると、彼女は自身の爪を元の長さに戻し、その勢いで自身を狙う無数の短剣から逃れた。
不意打ちを逃れきった彼女に無情にも黒い短剣は降り注ぎ、休む間もなく芳乃は回避行動をとる。
「流石ね。ここまで耐え切ったのも、攻撃してきたのも貴女がはじめて」
月光を背にして逃げ惑う青い獣人を眺める黒い少女が呟く。
「でも、そろそろ飽きたわ」
ヨルのその言葉をトリガーとするかのように黒いダガーの弾速と精度が上がり、芳乃の身体を捉え始める。
手足に短剣の直撃を受けながらも芳乃は再び大蛇の身体に迫る。
「……しつこいわね。もう終わりにしてあげる」
コンクリートの壁に身体を固定した芳乃に向けて無数の黒い短剣と大蛇のしなやかな鞭のような尾が迫る。
次の瞬間、地に這ったのは青い半獣の女ではなく、のたうつ大蛇の尾だった。
「っ!」
表情の薄いヨルに驚愕の色が浮かぶ。その直後、ヨルと身体を繋ぐ大蛇から異常を伝える痛みが伝わる。
その感覚は下僕と繋がって以来一度も感じたことのない感覚であったが、彼女の視界がその答えを示す。
宙を舞う百足の足が生えた大蛇の輪切り。
黒い少女の切り札の一つの敗北が眼前にあった。
「はぁ、はぁっ、叩いてダメなら……、切ってみろって、ね?」
陰鬱な空間に場違いな陽気な声が響く。それは芳乃の嫌味な勝鬨だった。
「何度も本気で殴っても堪えないから、ちょっと焦ったわ。でも、そういう時はやり方を変えれば何とかなるものよね」
そう言って芳乃は自身の右手をその造形にそぐわない滑らかな動きで眼前に掲げる。
彼女の爪は変形し、刀身の短い両刃の剣のような形になっていた。その爪の向こう側に見える芳乃の口元は不敵に大きな笑みが見ることが出来る。
「……帰りなさい」
そうヨルが呟くと歪な大蛇の姿は穴底の闇に溶けて消えていった。
自身を空高く支えていた身体がなくなったヨルは芳乃と同じ穴底に足裏をつける。
「さぁ、どうする?ヨルちゃん、次は何をして遊んでくれるの?」
にやにやと余裕を滲ませた声で芳乃はヨルに語りかける。黒い少女の”とっておきの下僕”を下したのだ。芳乃は人外としての自信すらつき始めていた。
寸刻、沈黙が流れたが、何の予兆もなく黒い少女は身を翻し引き絞った矢のように壁面を音もなく垂直に飛び駆ける。
「あはは、また追いかけっこ?」
そう子供のように言って芳乃はコンクリートの壁面に爪痕を残しながら後を追う。
ヨルは昏い穴の縁まで駆け上ると、そのままその穴の上空に飛び上がる。彼女の口元が凄まじい速さで動くと、瞬く間にビルで形作られた四角い穴にフタをするような青白く幾重に重なった魔法陣が成形される。それを確認したヨルは自身を追う芳乃に尻目もくれず、何処いずこへと去っていく。
対してヨルを追う芳乃は駆け上がる勢いのまま、グラディウスのような爪を揃えた手刀の一撃を行く手を遮る魔法陣に浴びせる。しかしそれはあらゆる要素を乱すこと無く、青い獣の突貫を無下にしその勢いを完全に殺してしまう。
自由落下の為すがままに再び穴底に芳乃は降り立つ。
「うーん、嫌がらせみたいなのは上手いのね。……とりあえず全力で殴ってみようかな」
『……そんなことしても無駄だぞ』
陰鬱とした穴を塞ぐ魔法陣を見上げながら独りごちる芳乃を、活力の感じさせない低い声が呼び止める。
「何よ。やってみないとわかんないわ」
『あれは概念の障壁だ。あれを物理的に破壊するのは不可能だ』
「へぇ、じゃあ……」
永綱の意見を受けた芳乃は視線をビルとビルの隙間に移す。しかし、そこにも頭上のそれと同じ雰囲気の障壁が張られてあった。
「そんなマヌケなことしないか」
芳乃は他の方法―――ビルそのものを突き破って脱出―――を心中に浮かばせるが、それを察した永綱は愚案を撤回させるべく提案する。
『物理的に壊すことは出来ないが、あの陣の解き方は簡単だ。教えるからやってみろ』
「……私の味方しちゃっていいの?貴方、ヨルちゃんをけしかけたというのに」
訝しげに芳乃は永綱に問いかける。
『儂は儂の貯めた力の無駄遣いをして欲しくないだけだ。あれを解くのに大した力はいらんからな。それに……』
「そうね、ヨルちゃんでは役不足みたいだものねぇ」
『……できるだけ無駄遣いはしてくれるなよ』
「善処するわ。さ、はやく解き方教えて。捕まえてあげないと追いかけっこは終わらないもの」

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